ゆるやかな死を死ぬ

リンドウは陽にあててやらないと花がひらかない。 朝、白い一輪挿しに活けた枝を窓ぎわの日なたに出してやり、錐状のつぼみが藍色にほころぶのを待って食卓に飾りなおす。閉じては開き、開いては閉じるのを幾日か繰りかえすうち、深緑の葉の縁が赤茶けて、い…

可動ハンガー

白壁と天井の化粧板の境目近く、あんな所に額を掛けるハンガービスがあったかなと眺めていると、それは陽気に誘われて出てきたシジミ蝶なのだった。

渓流オセロ

谷間を南へ流れくだる川にかかる橋から、下流をみやると、きのう降った雪がかわらの石の輪郭で溶け残っている。 視線を川上に転じれば、見わたすかぎりの雪は溶け、黒々とかわいた石がいつものように続いていた。 ドウダンツツジの一株ごと北側に丸く溶け残…

自由の価格

車がなくても当面の日常生活に支障はないけれど、何かをしようと思ったときにそれを成し遂げるための手数や時間が格段に増えるので、何かを思いたってはそのたびにガラスの天井に頭をぶつけているような日々が続く。 何百万というお金を払って買っているのは…

甘い情景

しばらくは抜け道のない谷間の道で自然渋滞につかまってしまった。あきらめの息を吐いて、シートにもたれ、ワイパーを止める。 十分にあたたまったフロントガラスに、おりからの淡雪が降りかかってはほろりと砕け、砕けては溶ける。舌先にほどける綿あめを思…

君子は豹変す

近所の花屋の店先で笑顔を振りまいていた恰幅のよいサンタクロースが、福々しいシルエットはそのままに、大福餅のような白うさぎに変身していた。

インプリンティング

年末の休みを数日後にひかえ、朝から車を走らせていると、小雪舞う路肩を、郵便局員の赤いバイクに遅れまいと、全力で立ちこぎをしている高校生に出会う。 一週間の後にはこの子たちの手によって、懐かしい人の近況を知ることになる。二時間あまりのあいだに…

残照

道にそって咲く白い百合はレトロなランプに似て、毎日すこしずつ日暮れが早くなる帰路を照らす。昨日より今日、今日より明日としだいに数を減らし、灯りがすべて落ちるころ、秋の闇が残る。

Quo Vadis

窓ぎわの棚にならんだ本で裾をおさえられたカーテンが、乾いた風をはらんで帆布のようにふくらんでいる。部屋の奥深くさしこむ朝の陽ざしに白く輝くさまにみとれながら、足もとの板張り一枚へだてて、静止している建物がそのまま海上へ滑りだすのをまなうら…

減反

夏至が近い。田ごとに映りこむ風景は稲の生長につれて紗がかかり、おぼろになっていく。そんななか時々半分ほど苗を植えずに残された水面には、いまだに雪を残した山並みがくっきりと稜線を浮かび上がらせていて、その澄明さが痛々しい。 幼いころから見慣れ…

サン・ジョルディの日

あのひととどうなりたいかわからない今日も書棚をめぐって帰る

名残

廊下を歩いていると金色のコーティングをした針金入りのリボンが落ちていた。ああそういえば昨日はバレンタインデーだった、と他人事のように思っている。 針金はその名を「エスタイ」というらしい。

鉄のぬくもり

夜半、坂を上がって駐車場にのり入れると、大きく上下したヘッドライトが隣人の車の下に集う猫たちの身じろぎするさまを照らし出した。お隣もどうやら少し前に戻ったばかりらしい。あの猫たちが今度はこの車の下に潜り込むのを想像しつつ、サイドブレーキを…

水槽

めっきり日暮れが早くなった窓は濃い闇をたたえて、つややかに終業時の室内をうつしとっている。降りしきるつめたい雨の音を聴きながらカーテンをひけば、自分の顔が、手が、白い魚影じみてガラスをよぎっていく。

目にもさやかに

ここ数日、玄関の掃き掃除ででるゴミが目に見えて増えていて、夏の少雨と前線の停滞をふたつながら実感する。耳を圧するほどだった蝉の声もすっかり秋の虫にとってかわられた。

魚眼レンズ

最大積載量10900kgの牛乳輸送車の後ろにつけば、丸い鏡状の背面中央、自分の車が玩具じみた小ささで映る。走りだせば、その一点めがけて世界はひたすら収束していく。

星を踏む

夜半から風もなくさらさらと降りそそいだ雨が、山桜の大株の下、ひろがった枝のかたちをなぞるように花弁をはりつけていた。夜明けのしめった薄闇のなか、ぬれたアスファルトに白々と浮かびあがる花びらを踏めば、星空をゆく心地がする。

峠より

山肌にとけ残った雪の繊細なひと刷毛と優美な稜線のうえに、あるかなしかの噴煙が立ちのぼり、手前の山は芽ぶき直前のいまにも吹き出しそうな気配をたたえてかすかにふくらんでいる。 路肩の雪は薄汚れ、春の光でうすめられて褪せたような空とまだ雪をのこし…

つぼみにおう

日に日にふくらむつぼみは今日、にえきらない曇天の下で、光によって漂白されないぶん思いがけず色濃く浮かびあがっている。ほころべばしだいに淡くなる花色を思いながら、風に揺れる枝をみている。

草食

高速のトンネルを出たところで赤色点滅灯をのせた黒い覆面パトカーと、それに従えられた地元ナンバーの車が路肩によってとまっていた。ライオンに噛みちぎられている仲間をよけて走るインパラの気分で、無関心を装って横をすり抜けたあとで、さすがに不謹慎…

車窓

遠くに見える山はいつまでもそこにあって、もうすこしこちらのビル、まばらな木立、その手前の家、眼前の電信柱と、順にスピードを増していく。左に大きくカーブする軌道上、巨大な円盤の縁にたって、それが猛スピードで回転するさまを見ている錯覚にとらわ…

相似形

のりづけされた針をバネの力で打ち込み口へおくる大型ホチキスの機構は、銃器のそれを連想させる。いつ果てるとも知れない書類の束をガッシャンガッシャンと無心に綴じつづけるうち、針がきれるや「弾ください!」と口走っていた。

同じ雪

季節はずれの本格的な降雪で、高速道路は事故やらチェーン規制やら通行止めやらでひどく渋滞している。 前にすすめず後ろにも退けず、つれづれにヒーターに曇った窓を指先でぬぐうと、はるか高架下に俯瞰する空き地で、子どもたちが背丈ほどもある巨大な雪玉…

春のきびす

あまりにも陽ざしがあたたかなのでストーブを消すと、コツコツと鉄が冷えていく音のなかに春が来ている。

ミダスの手

暖冬とはいえ水仕事がつらい季節、ホームセンターでミトン型のほこり取りを見つけたので、買ってみた。もこもこした毛皮のような四角いふくろ状の雑巾に手を入れて鏡やテレビのモニターをこすると、ほこりひとつ舞いあがらずにぴかぴかになる。うれしいなか…

密会

毎朝必ずとおる切り通しの上の道からは、表通りに面して建つ公民館の裏手がみえる。ふだんはひと気のないそこに、ここ数日、自転車をとめて話をしている高校生がいて、おそらくまだ一度もこちらには気づいていない。声はきこえても内容はわからないくらいの…

擬人

1日に1分のペースで加速度的に夜明けが早くなる朝の住宅街では今年、霜よけ用の銀色のシートが流行っている。明るい空の下で、それがアイマスクをつけた寝ぼけ顔の乗客を思わせる。

魔法陣

朝、霜柱の立った公園の土が日中のひざしにとけて、ふかふかの画布になっている。丸やら四角やら縦横無尽に描かれた線から、昼間ここでくりひろげられた数々の仮想を、無人の夕闇のなかに立ちあげてみている。

坂のおわり

目がうるむのは香の煙がしみるからで、ながいながい下り坂をゆっくりと遠ざかっていく後ろ姿を見送っていた身には、いつが別れの時だったのかさだかではない。 見送る側が納得するまで、辛抱づよくつきあってくれたその背中が見えなくなってようやく、手を引…

職人芸

久しぶりに冷え込みがゆるんだ朝、車のフロントガラスの霜がプラスチックの刃につれてするりと巻きあがるさまに、大根のかつらむきを連想する。