下り坂

坂のおわり

目がうるむのは香の煙がしみるからで、ながいながい下り坂をゆっくりと遠ざかっていく後ろ姿を見送っていた身には、いつが別れの時だったのかさだかではない。 見送る側が納得するまで、辛抱づよくつきあってくれたその背中が見えなくなってようやく、手を引…

奇数

よごれ物をあつかうための薄いプラスチック手袋の50枚入りパックは、いつからかは思い出せないのだけれどいつも片手分だけ残る。しかたないので新しいのを買ってきて、最初は一枚だけ出して使うので、つぎもまた片方だけ残るというのをずっと繰り返している…

うつせみ

入院を知らせる電話の最中、携帯電話がふるえて30秒後に電源が切れると警告してきた。のこされた30秒でなんとか会話をきりあげると、直後、再びぶーんとうなりをあげて、それを最後に画面が暗転した。てのひらに余熱を感じながらぱたん、ととじると、電池の…

にじゅうしのひとみ

恒例の夏の宴の真ん中に座らせて、あれを食べろ、もっと皿を近づけろ、スプーンの方がいいか、暑くはないか、麦茶はいらないか、疲れたか、眠くはないか、と一同注視にとどまらず、代わる代わる口と手とを出すので、たぶん祖父本人は個体識別もできずに疲れ…

冷たい食卓

いちばん堪えるのは、やれ吸い込むな、熱くない?こっちも食べてよ、薬のもうか、歯ブラシしよう、と怒濤の食事時間を終えるやいなや、さっさと寝られてしまったあと。 細かく刻み、消化やバランスを考え、薄味を心がけた食事を機械的に流し込む。日によって…

あかあおきいろ

朝昼晩それぞれ違う、十数種の薬はあかあおきいろ、粉にカプセルと実にさまざまで、何度やってもうっかり間違えそうになる。自分では指示通りにそろえられない量の薬を飲みつづけて、あれほど好きだった相撲も本も花たちにも関心を失って、今はただ眠ること…